虎御前山 小谷城攻防戦 陣跡武将名一覧
近江高島郡の領主。主家滅亡後は信長に従ったらしく、1582年明智光秀に応じて山崎合戦に参加したが、敗れて所領没収された。堀秀重の次男秀種を女婿に迎え入れて養嗣子となす。多賀新左衛門常則との混同が見られる。
美濃出身で、早くから隣国尾張の織田信長に仕え、黒幌衣衆のひとり。1568年、信長の上洛に従う。以後、石山本願寺攻めをはじめ各地の一向衆との戦いに参加した。また、信長の命により、謀叛した荒木村重の一族を尼ヶ崎で処刑した。1582年本能寺の変後、羽柴秀吉に従い山崎の合戦で明智光秀を破った。豊臣政権下では敦賀四万石を与えられ、羽柴の姓を授けられ、敦賀侍従と呼ばれた。嗣子がなく断絶。室は丹羽長秀の妹。
信長の近習として出仕。馬廻衆として転戦し、次第にその力量を認められるようになり、以降も光秀・秀吉らと共に京幾の行政を担当するなどした。1582年、信長の三男信孝を総大将とした四国征討軍に副将として加わり、堺で待機していたところ、信長自刃の報に接し、信孝らと大阪城にあった光秀の娘婿織田信澄を襲撃、城内の千貫櫓にいた信澄を攻撃して自刃させ、13日、秀吉と合流して「山崎」に加わる。「清洲」では秀吉を支持、「賎ケ岳」にも秀吉陣に加わり、柴田勝家を北庄に追い攻め滅ぼした。1585年4月、病にかかると、「命を奪わんとする正体を見届けん」と自ら腹を切り、腸をえぐり出して死んだという。
近江国甲賀の出身。伊勢・伊賀侵攻に従軍し活躍、信雄麾下で北畠家を滅ぼし、その功により、伊勢長島城主となる。北畠具房を助け、領内に預かり、その遺臣を多く召し抱えた。1582年の甲州攻めの先鋒となり、武田家滅亡後は関東の管領として上州厩橋城主となる。しかし、同年、本能寺の変後、北条家と戦い、伊勢に敗走した。その後、柴田勝家らと結び、秀吉に対抗するが、桑名城が落城し、ついに降伏する。1584年の小牧長久手合戦に従軍し、蟹江城を攻略したがすぐに奪回される。秀吉より三千石を拝領し、越前大野に隠退し、同所で没。
美濃の出。鎮守大将軍藤原利仁流。"名人久太郎"と呼ばれた戦上手。早くから尾張・織田信長に仕え、側近として信頼を得た。越前・一向一揆討伐、紀伊・雑賀一揆戦等に参戦。1580年信長の子信忠に従って、謀反した摂津・荒木村重討伐に参加。1582年羽柴秀吉の備中・松山城攻めに目付として同行。本能寺の変後は、秀吉を支持し、山崎の合戦では先鋒も務めた。信長の側近であった彼の支持が与える影響は大きく、秀吉より厚遇された。長久手の戦いでは、池田恒興、森 長可らの軍が崩れる中、奮戦活躍し、徳川軍の攻勢をよく支えた。1590年相模・小田原征伐中、病死。
尾張・織田信秀嫡子。青年期は奇行が目立ち“うつけ者”と評される。家督相続後、守護代織田氏等国内の対抗勢力を駆逐制圧に力を注ぐ。1560年桶狭間において上洛する2万5千の駿河・今川義元軍を3千の兵で奇襲、見事義元を討ち取った。1567年には宿敵美濃・斎藤氏を敗って居城を井ノ口改め岐阜に移し、“天下布武”の意思を示す。間もなく足利義昭を奉じて上洛、将軍の座に着けてその権威を利用するが、やがて反目して義昭は信長討伐の御内書を各地に乱発するようになった。越前・朝倉氏攻略中、盟友北近江・浅井氏の思わぬ造反により挟撃を受けるが間一髪逃れ、1573年朝倉、浅井氏を滅ぼす。この時、朝倉、浅井氏に味方した比叡山を焼討にして世を驚かせた。1575年には甲斐・武田氏と長篠で戦い、その精鋭騎馬軍団を鉄砲隊を活用する新戦法により打ち破って滅ぼした。天下の半分を平定し、匹敵する大名はなかったが、1582年不満を持つ重臣明智光秀に京・本能寺逗留中に急襲され自害した。
尾張国の出身、1551年元服の年に家を出て、行商ののち織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女ねねを娶り、木下藤吉郎と名乗った。1573年に浅井氏の旧領18万石を与えられ、羽柴姓を名乗る。次いで近江長浜城主となり、年貢・諸役免除などを実施して繁栄に尽力した。やがて信長の天下統一事業が西国に及ぶと、各地を転戦した。 1582年、備中高松城を水責めにしている時に本能寺の変が起きたが、いち早く和睦を結ぶと軍を返し、山崎の合戦で明智光秀を討ち、以後、信長の統一事業の後継者となった。賎ケ岳の戦で柴田勝家、織田信孝、滝川一益を破って天下制覇の基礎を固めた。四国、九州を平定し、1590年に北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して全国統一を成し遂げた。 1592年、97年と、2回に渡って朝鮮に出兵(文禄の役及び慶長の役)するが、水軍の不振や明の援軍、また朝鮮各地の義勇軍の活躍などで失敗に終わった。二度にわたるこの戦役では、日本に利するところはなく、豊臣政権滅亡の原因ともなった。 晩年は、幼い秀頼の将来と豊臣の行く末をひたすら案じながら伏見城にて没した。
尾張国の出身。織田信秀に仕え、その次子信行の家老となる。1556年信行を擁して謀反を起こすが、信行の兄信長に敗れる(稲生の戦い)。後に信勝を見限って信長に仕え、尾張統一、上洛等に諸戦にめざましい武勇を示し、“甕割柴田”“鬼柴田”と異名をとる。1575年には越前一向一揆を平定し、北庄城主なって、織田軍の北陸方面攻略を任される。加賀、能登を平定後、1581年越中平定戦を開始するが、翌年明智光秀に信長が殺された(本能寺の変)時、松倉城攻略中で越後・上杉軍と対峙していた為、引き返すことができず、光秀討伐に間に合わなかった。清洲会議で、烏帽子親になった信長3男信孝を擁すが、羽柴秀吉らと対立。信孝、滝川一益らと共同戦線を張り、1583年近江・賤ヶ岳で秀吉と戦うが敗走、北庄城にて城を囲まれ自刃した。